Column
#014:キャッチ&リリースの精神をアイヌに見た!
●2006年常識≠ェまたひとつ覆りました…今回の話題はディープです
image galaxy  2006年は太陽系の最果ての惑星として知られていた冥王星が惑星≠フ概念から外されて天文学の常識がまたひとつ覆された。常識については『これほど不確かなものはない』というのがこのHPでの主張ですが、こうもあれこれと常識を覆されてはフレッシュな脳を維持するのが大変ですね。
『これが常識』とされていた事が覆される事をコペルニクス的転換≠ネどと言いますが、コペルニクス(ポーランド)にしろガリレオ(イタリア)にしろ人類は常に真実に対する好奇心で進化してきたわけで、同時に過去の偏見による過ちから『これはイカン』と学んで進歩してきました。日本の戦後教科書はこのような観点から常に内容の改定が行われているそうですが、近年の各技術の発達によって改定が間にあっていないようです…特に日本史・世界史ではDNA鑑定や放射能測定法などの新技術により歴史観が次々と塗り替えられていて、現在社会で働く世代が『え?そうなの?』な内容になっています。事実と食い違う事を頭に詰め込まれて、一体何のためにあんな勉強をしてきたんでしょうか…

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●優しくも厳しいアイヌの生命観
 さて以前からとても気になっていた『東北蝦夷(エミシ)』を調べていって面白いことが分かってきまして…青森県三内丸山遺跡から発掘される出土品から縄文期三内丸山が日本の交易の中心地で、人々は定住し狩猟と農耕で豊かな生計を立てていた…と。我々が教わっていた縄文人は定住せず、原始人に毛が生えたような生活≠ニいう常識はものの見事に覆ってしまいました。
 さらに国立科学博物館「はるかなる旅展」では縄文人の末裔として琉球とアイヌにその血が濃く残っていて、渡来人(弥生人)が大挙して上陸した関門海峡周辺を中心に混血率が高まり、弥生人の血が濃い西日本と縄文人の血が濃い北海道〜東日本・九州南部〜琉球という現在の日本人の図式が出来上がった、と。可能性だけを言えば東北蝦夷と北海道のアイヌは同種もしくは近似種で、実に似通った文化思想を持っていた、ということになりアイヌ民族博物館HPなどでは同種≠ニして扱っています(DNA鑑定で近似文化だが異民族とする説もあり)。
 残念ながらこの国では潜在的な差別が根強く残っているので血統については皆さんの価値判断に任せるとして、縄文人の末裔とされるアイヌについてもう少し掘り下げてみたらとても共感できる思想に出くわしました。
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明治10年頃のアイヌ男女(正装)
 
 アイヌが長年迫害され、不条理な差別を受けてきた背景には彫りの深い顔と文字を持たないという事、それにイヨマンテ(iyomante=イオマンテ)という熊の霊送りの儀式にありました。狩りで生け捕った小熊を育てて最後は絞め殺すという行為だけを見た和人は『こんな残酷な事をするのは文化が遅れているからに他ならない』と勝手に決めつけ誤解を元に同化政策という大きなお世話をやらかした、と。
 しかしアイヌの思想ではこの地上には人間(≒aynu)とカムイ(kamuy)しかおらず、カムイは動物・植物・生活用品などの衣を羽織って人間に食べ物や毛皮・生活を支えてくれると考えます。従ってむやみやたらに獲ったらカムイは怒り人に様々な形でバチを与える、獲りすぎてはならぬ、喰う以上にとってはならぬという大原則に発展していくのです。
 熊といえば日本在来種で最も大きな肉食獣で、多くの肉と毛皮をアイヌ(aynu≒人間)にもたらす最も尊ぶべきカムイであると定義付けています…ではなぜイヨマンテ(iyomante=イオマンテ)を行うのでしょうか。それは常に自然と対峙し厳しい自然観を持つ狩猟民族の心優しい思想が背景にあるのです。
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イヨマンテ(再現)
 
image photo  生きるためとはいえ母熊を殺してしまったら小熊はどうやって生きていくのでしょう…本来育てるべき母熊を殺してしまった罪滅ぼしとしてカムイに代わって人間が責任を持ってカムイの子供を育て、大人に成長したらカムイの国(=kamuy mosir)に返す。先にカムイの国に旅立った母熊に大人に育てた子供を返すというのがイヨマンテ(iyomante=イオマンテ)という儀式です。まずはアイヌ文化振興・研究推進機構・こどもポータルの絵本からその思想に触れてみる事をお勧めします。
 アイヌの思想では獣や鳥や魚や住居や火や水や便所までもがカムイの化身でそれぞれに祈祷をしていたというから驚きです…カムイとは日本語の神≠フ語源と言われており、今でも鏡餅を便所や火回りに供える、針供養など神教や仏教などと融合して形を変えその名残を残しています。全国各地にその名残を見受けられる、アイヌ語語源の地名が残っている(四国の四万十はアイヌ語語源らしい)、日本語の単語にアイヌの名残がある事、また海の神様・山も神様・川の神様という発想もひょっとしたらアイヌのカムイから来ているものかも知れません。
 アイヌと古代日本との関連性は古くから指摘されていましたが、近年その関連性が非常に濃厚なものとして指摘され今後の考古学調査や民俗学的発見により新たな局面を迎える事を期待するところです。


●それに比べて和人(日本人)の釣りときたら…
image photo  あなたがアイヌ縄文人末裔説を支持するか異議を唱えるかはともかく、釣りという行為そのものはアイヌのイヨマンテ(iyomante=イオマンテ)同様一見すると残酷な行為≠ナある事に違いはありません。釣りをしない人から見ればそれは単なる生命を弄ぶ残忍な行為∴モ外の何物にも映らないでしょう。
 それが残酷な行為なのかそうでないかの差は釣りをしている人の目線の先にあるものです。最近では西洋かぶれなのか単に横の奴の真似しておけば楽だと考えているのか、猫も杓子もキャッチ&リリースのC&R至上主義≠ェ蔓延し、キャッチ&キル(catch&kill)を無条件に諸悪の根源と片付ける傾向があるようでして…
 人類は元々獲って喰う≠スめに釣りを行ってきたわけで、この獲って喰うという行為そのものを否定してしまうと人類が歩んできた飢えとの戦い≠フ歴史そのものを否定してしまう事になりかねない。キャッチ&キルができる背景には豊かな自然とそれを享受する人間のバランスが保たれているという良い証拠なのだ。Colimn#012でも触れている通り人間には元々自然の恵みを享受する権利≠有している。環境破壊に加担していたらその権利も剥奪されますが、そうでなければ下手な価値観の押し付けは大問題です。
 
 釣って良い場所で釣りをして持ち帰ってよい場所で釣った魚を持ち帰る事は決して悪い事ではありませんが、問題は持ち帰るという行為ではなくどれだけ持ち帰るか≠ナす。
 よく古い釣り人は『釣ったものは俺のもの、どんなに小さくても俺のもの』と持って帰ってしまいます。特に豊かな自然が残った地域の人達がそう考える傾向にあるようですが、どんなに豊かな環境でも調子に乗って誰もがバカスカ釣って持って帰っていればすぐにサカナはいなくなってしまう…例えば私が子供の頃から通っていた東伊豆一体は至る所磯釣りのポイントだらけでしたが、現在ではあの時ほど魚影は期待できません。喰い切れないほど持ち帰っても仕方がない、という気持ちにいつまでもバカスカ釣りたいという気持ちが加わってキャッチ&リリースという欧米の風潮が支持された、と。
 ではネットをリリースネットにしてフックを全てバーブレスにして手を水で濡らして温みを取ればそれで良いかと言えば、決してそんな事はありません。ネット越しであれ手を濡らした後であれ握ったらダメだし放り投げるなんてもってのほかです。冷水域を好むトラウトの場合水から出すだけでかなりのダメージです。これが全部クリアできていない人って、プロアマ問わずかなり多いんです。
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image photo  一番最悪なのは手段を知らずに道具だけ揃えてやった気になっている≠ニいう事です。
 バスフィッシングで例を挙げれば、左の写真のようにリリースがなっていない結果こんな傷だらけのバスがうじゃうじゃ増えてしまう…この傷が元で細菌が入り魚体が弱り遅かれ早かれ死んでしまう、と。近年バスフィッシングは以前のマブナ釣りのような釣りの入門編としてすっかり定着しているので『知らなかった』という人が多いのは仕方のない話かもしれませんが、死んでいくバスにとっては迷惑この上ない話です。
 これは最も最悪な事で、結果を見るとどう擁護したところでどんなに優しい言葉で言ってもやはり『文化の遅れた残忍な行為』としか言い様がなくなってしまいます。これでは一思いに殺して血と肉にしたほうがカムイを確実にカムイモシリ(kamuy mosir)に送る事ができる、と。
 近年うわべだけを飾っておけばそれで許されると勘違いした輩がやたら多く、その結果いじめがあったのに『いじめがなかった』と未だ言い張る某中学や『受験勉強に必要ないから授業をやったことにして』授業をやらず卒業できない生徒を生産する高校とか、訳の分からん事態が発生している…果たしてたかが遊びで本質を見出せない連中にもっと大きな事態の本質が見えるのでしょうか?


●Catch&ReleaseはKamuy santek(カムイの血筋)
 最も最悪なのは『このサカナは喰うから持って帰るが、このサカナはいらない』という基準だけでリリースするかどうか決める事です。トラウト・フライにのめり込んでいる人間は『そんなバカな』とにわかには信じられないでしょうが、トラウト・フライをやらない人はこのような浅ましい考え方を胸を張って堂々と言って憚らない輩がどれだけ多い事か。
 そんな浅ましい連中には閉口してしまいますが、彼らは生命にまで序列をつけている≠ニいう事がごく当たり前に捉えています。しかしそれがいかに恐ろしい事かを考えた事があるのでしょうか。例えばニホンザルが減ったからといって盲目的に保護したら農作物や観光客を荒らすようになった、鹿が減ったからといって無条件で保護したら森林を傷つけて木々が枯れてしまう、クジラが減ったからといって狂信的に保護に走った結果クジラが増えすぎて他の海産物に影響が出始める…サカナや畜生家畜ですら価値を決めて分けてしまう人間が果たして同種の人間を分け隔てなく見ることができるでしょうか?
 これをアイヌ風に言えばこの世はカムイとアイヌしか存在しない≠フだから生命に序列をつけること自体カムイの教えに背いているということになるのでしょう。
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 ただ『喰うか喰わないか』だけでリリースする人間が、果たして真摯にリリースの事について考えるでしょうか?喰わない=要らない=手元に残したくない=捨てる≠ニ考えている人間がいつまでも生かしておこう≠ニまで考えるでしょうか?そんな細かい事面倒臭いのでやりゃあしない、というのがごく自然な行動です。ひどい場合『どうせ漁協が放流するからいいんだよ』と一向に改めようとしない…トラウト以外の釣りに行くとそんな無責任な連中が目に余り驚かされます。
 これはただの偶然か、少なくとも私の周りではそんな無責任な連中はアオリイカに夢中になっています。私はこれからも無脊髄動物を対象にすることはないでしょう…もちろんこれは生命の差別ではなくアオリイカの釣りというものそのものに興味がない、トラウトのようにカムイの面影を見出す喜びが得られない、だから限りある釣期でスケジュールを組む時トラウトが優先されてしまうという個人的な感情だけでモノを言っています。もちろん無脊髄動物に夢中になること自体否定するつもりはありません、お好きな方は極めてください。
 おそらく私のDNAの中に何%か息吹いている古代縄文人のDNAが私を鼓舞しているのかもしれません…残念ながら私は純粋なアイヌでもなければ縄文人でもない、和人のひとりですが。
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image photo  アイヌ語では人間=アイヌ≠ニ大雑把に紹介されていますが、実はアイヌ=人間らしい人間≠指していて、悪い人間はウェンペ(wenpe)≠ニ言うそうです。何でもかんでも根こそぎ釣らなければ気が済まない、たとえ人の邪魔をしてでも自分が釣れないと気が済まないという人はウェンペであり、絶対にアイヌ=人間らしい人間にはなれない。
 そもそも喰うための釣り≠ヘやもすると『俺はこれだけ釣れるんだ、すごいだろ?』と自己満足に浸りたいがためだけに乱獲に走る危険性を常に秘めています。もちろんそんな自分本位な人間はどこへ行ってもウェンペです。しかしもっとタチが悪いのは『このサカナは喰える・喰えない』だけでリリースをするかどうかを決めている人間で、これこそ自分本位の局地で、このような輩にマトモなリリースを望む事ができるはずもありません。
 当然自己都合と自己満足だけでリリース=捨てる″s為を繰り返していたらカムイが許すはずがありません。実はアイヌの言うカムイの罰≠ニは環境破壊に関する諸問題と深く関連していて、キャッチ&リリースの精神とも共鳴する部分が沢山あるのです。
 果たしてあなたの釣りは、私の釣りは、アイヌと呼べるものでしょうか?それともウェンペと呼ばれるものでしょうか…?
 
an=nomi kamuy uwatte wa sir an na
 
…以上、ウェンペ・寺田氏に対する私の最終回答です