Column
#015:緊急編集 学校崩壊…ウラ漁師的見解
●マニュアル依存の弊害
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 最近いじめによる自殺と必須科目無視の問題でマスコミが大騒ぎしていますね。近年のマスコミという奴は報道≠ニワイドショー≠フ境界線がまるでなくなって、結果『ただ群がって大騒ぎすればいい』体質で凝り固まっているので徹底的に無視すればいいだけの話ですが…良識が服を着て歩いているような私(?)は『アンタらとはやってられんわ』とばかりに背を向けた、と。
 そんなマスコミ連中がどこまで人として落ちれば気が済むか≠ヘ別として、今回の大騒ぎしている教育≠ノ関する問題を見ているとどうしても左の東京ラブストーリー=i私は大嫌いです)のOAされた、1990年代前半を思い出してしまうのです。その頃をタイムリーに生きていた人は、果たして団塊の世代のように目を細めて懐かしむ事ができるかといえば…個人的には決してそんな事はありません。
 1990年代前半といえば団塊の世代が当時10代後半〜20代の世代を『新人類』と形容し、世はバブル景気の余波に踊らされあのジュリアナ〜〜〜≠ネ時代で『付加価値の時代』とかなんとか言っていた時代ですね。今から見るとチャンチャラおかしい話です。
 特にこの頃男性ファッション雑誌やデートマニュアル雑誌なんてモンがもてはやされまして…ひねくれモノの私は当時から型にはまる≠アとが大嫌いだったので『明日彼女とデートなんだよ』と必死ブッこいてマニュアル本を片っ端から読んでいる友人を白い目で見ていたわけです。
 
 1990年代前半にはこのマニュアル本≠ニいうものがもてはやされた時期で、私の住む横浜くんだりではマニュアル本で紹介された店舗やデートスポットには軒並み人や他府県ナンバーの車で溢れデート慣れした恋多き女≠ニなれば『またここぉ?』と溜息をついて2度とそいつとデートに行こうとはしない、と。何とも間の抜けた時代ですが、私のように横浜に詳しい人間(地元民だから当たり前)はさらっとマニュアルに載っていないところに連れて行くもんだから『お、やるじゃん』となってもてた事もてた事…あの頃はあんなにもてたのに、おかしいなぁ。
 とオッサンのボヤキはともかく、一時の流行であって欲しかったマニュアル・ブームはいつの間にか各企業でも積極的に取り入れられ気がついたらブームは常識として定着してしまった。現在でも急成長を遂げた企業では『社内教育マニュアルを徹底させろ!』と躍起になっているところが多いんではないですか?
 マニュアルは人を統制する上では実にお手軽なものである事は認めますが、たかだかデートでも変化球を投げてお姉ちゃんを喜ばせる事ができないように、個人のとっさの判断≠竍良心に従った例外定期措置≠埋没させてしまう『バカの大量生産』を助長する危険性を常にはらんでいます。
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アウトドア&フィッシング ナチュラム

●現在の教育システムはボーグ・ドローンの生産と変わらない
image photo  困った事にこのマニュアル依存主義が教育の現場でも用いられている…教員がバカの大量生産≠フ産物だというのは悲劇としか言いようがないでしょう。ただでさえ学校という社会は物理的に見ても閉鎖的で教員はお山の大将≠ノなりかねない危険性をはらんでいる(実際福岡の中学では先公が先導していじめを助長していたそうじゃないの)のに何でわざわざ…と理解に苦しみます。
 バカの大量生産の一例として、事件が発覚した後の各学校の校長の対応にバカさ加減がよく現れています。皆さんも会見やその後の発表を見て実に歯がゆく不愉快に感じている事でしょう。おそらく事件が発覚したあとの対応マニュアルがないのでしょう…マニュアルがないから言い訳が中学生か小学生のような支離滅裂で幼稚な事しか言えない、つまり校長だなんだとエラそうにしていても裸になったらその程度って事です。アンチョコがなければバカ丸出し、と。
 校長がこの程度の代物なのだから最前線の歩兵である教員だって期待はできません…もちろん『いや、うちの子供の担任は違う!』という人も中にはいるでしょうが、問題はその先生がいかに優れた教員であってもその教員が置かれている環境が校内マニュアルを押し付ける体質≠セったらどうでしょう?
 
 困った事に熱血漢に溢れて教員になった若者でも先輩教員や教頭やら校長やらが『そんな事して苦労するよりマニュアルに従っていれば簡単だ』と押し付ける。できのいい子供の勉強そっちのけで落ちこぼれの面倒を見る…昔のドラマのような熱血教師≠ヘ現在の教育現場では『マニュアルに外れた落ちこぼれ教師』と摘み出されてしまいます。マニュアルに依存していれば大きな波風も立たずに過ごすことができる…これを事なかれ主義≠ニいう。
 これによく似た社会システムを見たことがあるぞ…と考えてみたら、私の大好きなStar Trek≠ノありました。クイーンを頂点にした蜂のような集合組織を持つBORG(ボーグ)≠ェそれで、決め台詞は『我々はボーグだ。お前達を同化する。抵抗は、無意味だ。』と。物語中ボーグは冷酷無比に同化と呼ばれる強制的なサイボーグ化と洗脳とにより、自組織へと他のヒューマノイド(人間)を取り込もうとする存在として描かれています。
 ボーグのクイーンを頂点とした組織図は現在の教育組織図と驚くほどに通っているんです。クイーンを文科省とすると…あとは皆さんのご想像に任せるとして、教員の個性を完全に剥奪するところなんかそっくりですね。そんな中で抵抗してまでも教育に情熱を傾けることのできるドローン教員が果たしてどれだけいるでしょうか…そんな組織体形の中で個人≠ニいう考えがどこまで生き残っているのか、甚だ疑問です。
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●人間に大量生産は効かない
 現在の日本の教育はある基準に従った教育マニュアルに同化させる事が最大の課題となっているようですね。ある基準とはもちろん『受験』であり子供達をこう偏差値に持ち上げようとする事で、たとえ他の事を犠牲にしてでも偏差値を上げる℃魔ェ最大の命題となり、結果『受験に必要でないものは省略する』という手段を用いてでも大量生産している、と私には思えてならないのです。
 しかしそのような受験と偏差値に偏った教育カリキュラムでは人間が社会で生きるうえでやってはならないこと…強盗・恐喝・殺人や飲酒運転といった一見誰にでも分かるような悪≠徹底的に取り締まる事が疎かになっている。それが現在の日本社会では歯止めが利かないところまで来ていて、皆さんがご覧になっているニュースで気が滅入るような信じられない犯罪が増加している、と。
 これは人間をひとつひとつの個性として見ずにどうせ何も知らない子供≠ニ人括りに見てベルトコンベアの上に乗せて科目という部品を次々と組み込んでいくヘンリー・フォード以来の大量生産システムの弊害としか考えられないのは私だけだろうか。
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image photo  そもそも人間というものは父親と母親がいて始めて生産できるスーパー家内製手工業品∞究極のカスタム・メイド≠ナあってひとつひとつの個性が違っていて当然です。それを自動車や家電製品のように既製品に仕立て上げようとする事自体不自然な話です。にもかかわらず日本の教育では既製品として仕上げる事に躍起になって落ちこぼれたら『あとは知らねえよ』とばかりに爪弾きにする…不自然な環境で不自然に育てられた奴がマトモなことを考える事なんか、できませんよね?
 事実教育が行き届いているといわれている都市部の連中ほど釣りをやらせてみてもマニュアルにがんじがらめで、格好と屁理屈だけは一人前でも釣りの腕や釣果は半人前にも満たない、と。こうなると『人それぞれ』という逃げ口上は通用しません。なにしろそれぞれであるべき人間がひとつの企画に同化されてしまっているのですから。
 一見関係ないように思える事でも、原因を追究してみるとひとつの事象にたどり着く…教育関係の皆さん、釣りに行って背筋の凍るような思いをしていたらアナタはまだ健全≠ナす。


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