Column
#016:縄文の釣り・弥生の釣り
●東北蝦夷(エミシ)を考えていくと…こんな考えが浮かびました。
 さて釣りから広がる知的好奇心を刺激するウラ漁師の小部屋≠ナすが、コアな常連さんは私が東北蝦夷(エミシ)や日高見国といった東北の続縄文文化に恐ろしく関心を持っていることを感じている事でしょう。事実日高見国という北上川の語源となった東北古代国家や東北蝦夷という歴史に掻き消された文化は非常に興味深い。実は縄文期は北東北こそが日本の中心であり世界的にも稀有な高度な文化があった…と。
 そして弥生時代秦を出発した一群が中国大陸から東に逃れ、東の果ての小さな小島に上陸した…そこが関門海峡周辺であり日本に稲作がもたらされた、と。従って渡来人の目で見れば日本は新しい国家を作る新天地≠ナあり先住民族の縄文人にしてみれば甚だ迷惑な侵略行為≠ナあったのだろう、と。個人的には新天地で権力者になろうとした山師な渡来人もいただろうが、全てが全て侵略者というのは疑問が残る、と考えています。何故なら単なる侵略なら先住民族は根絶やし≠ノされてしまう時代であったにもかかわらず我々在来日本人には多かれ少なかれ縄文人と弥生人のDNAを持っている…これは縄文人と弥生人の間に恋愛関係≠ェ成立したからでは?と考えるのです。
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image photo  と、こんな話をすると正直『何がなんだかよく分からん』ですが、宮崎駿の代表作もののけ姫≠ェ東北蝦夷をモチーフになっているといえば、なんとなくわかるでしょう。もっとももののけ姫は日本書紀などの文献で残っている蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた≠ニいう史料に基づいて妖精や妖怪といった要素を取り入れイメージから発展し、独特のファンタジーワールドが出来上がったわけです。
 しかしファンタジーは飽くまでも幻影で、実際の東北蝦夷達がオオカミと話をしていたか、と言うと「んなアホな」です。もちろんもののけ姫≠ヘそれだけで物語として完成されたものですが、決して史実とは違う、と。ドラマは歴史書じゃありませんからね。
 三内丸山遺跡の新発見から縄文人は定住し焼畑などの農耕まで行っていたことが分かりましたが、東北通ならピンと来る…秋田のマタギは夏に野良仕事をして冬には狩りに出る。そして北海道通ならピンと来る…アイヌも同じサイクルで畑仕事と狩りをしてきた。ふたつの接点は言語にも見受けられまして、マタギ言葉にはアイヌ語と良く似通っていてルーツは同じもの、というのが定説です。近年ますますアイヌが縄文文化の末裔であると思われている事はColumn#14で触れましたね。


●トラウト・フィッシングはとても縄文的
image photo  個人的には東北蝦夷が北海道のアイヌ文化に多大な影響を与えたと考えているので同じ文化圏=縄文文化圏≠ニ考えてみますと…
 東北蝦夷=続縄文文化の名残として秋田県・マタギの生活スタイルがあげられます…熊狩りを生業とするマタギは年がら年中熊を追いかけているわけではなく、狩猟は森の木々から葉が落ち視界が広がる冬から初春にかけてのみ行います。そして春から秋には田畑を耕し1年が終わる、と。三内丸山遺跡から出土された農耕の痕跡も冬は狩猟・夏は農耕≠フ可能性を示唆していると思われます。さらに宮崎県・椎葉村の焼畑農業は縄文時代から続く農法と言われています(リンクはEcoNavi HP)。実はこのスタイルはアイヌの生活と全く同じサイクルで、北東北のあちこちにアイヌ語源地名が残る・マタギ衆が使うマタギ言葉≠ニアイヌ語の近似性などから縄文文化はアイヌ文化のルーツではなかったか、と考えているのです。
 さらに東北をはじめとした東日本では正月に鮭を用意するものですが(関西ではブリ)、アイヌでは鮭はKamuycep(カムイチェプ;カムイの魚)≠ニ敬っていました。カムイとは神の語源となる存在ですから、めでたい正月に食卓に上がるのも当然ですね。
 
 熊狩りでは熊が冬眠する熊穴撃ち≠ニ春先に熊穴から抜け出した熊を追いかけ撃ち取る巻き取り≠ニ呼ばれる一種の追い込み猟に分かれます。これは椎葉村のイノシシ猟やアイヌの狩猟でもよく似た狩猟法がありますが、猟に関する儀式や狩猟手順・作法から禁忌事項まで実によく似通っている。この事からこれが縄文人の狩猟方法だったのではないかと考えています。
 さてこの狩猟方法と釣りを考えてみると穴撃ちはピンポイント・ショット、巻き取りはラン&ガンや釣り上がり・釣り下がり、とトラウト・フィッシングと全く同じ事が当てはまるのです。つまりトラウト・フィッシングは狩猟民族の釣りと言い切ることができるのです。
 そしてバス・フィッシングやその他のルアー・フィッシングやフライ・フィッシングもトラウト・フィッシングがルーツになっている、やはりラン&ガンやピンポイント・ショットが基本中の基本ということ等から狩猟民族の釣り≠フ末裔といえるでしょう。
 ということで基本をしっかり押さえたフライ・フィッシングやルアー・フィッシングは概して狩猟民族の血統の釣り、すなわちとても縄文的な釣りということができるのです。
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●へらぶな釣りはとても弥生的
 転じて農耕民族というものは田んぼや畑に張り付いて種蒔きから収穫まで延々地道な作業が続きます。一見すると誰でもできそうな簡単作業の連続≠ノも見えますが、土の配合(酸性土やアルカリ土、黒土と赤土、目の荒い土のと細かい土等など)によって仕上がる農作物に大きな差ができてしまう、実に奥深いものがあります。言ってみれば農作業は延々続く土の管理にあるわけでよい作物を育て続けるにはこまめに土を管理していかないといけない、休耕田や農作業をやめてしまった畑は1からやり直さなければならなず、実に手間ひまと農業的センスが問われる難しいモノです。
 農業の基本的な視点はこれくらいにして、渡来人が大挙して上陸して始まった弥生文化は里を切り開き田畑を広範囲に広げていく反面、農作業に従事する人々は粘り強く深い深い深ーい土配合生活≠フために1箇所に張り付いて生活するのです。
 そんなシーズナル・ライフサイクルを営む農耕民族が釣りをするとどうなるか…最も典型的で最も確立された釣り方はへらぶな釣り≠ノ集約して見る事ができるのです。
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 ハコ釣りにしても野釣りにしても、1回ココ!≠ニ決めた場所はなかなか移動しない。というのもサカナを寄せるための打ちエサ≠ェ充分に効果を発揮するまでに驚くほどの手間ひまと頭脳と時間をかけます。例えばマルキューのエサを使った両ダンゴの釣りで言えばバラケ・マッハを2:夏のダンゴ底を1をちょっと固めに練り込んで<Tカナを集めるがサカナが寄ってきたらうわずりを押さえるためにマッハを0.5に減らして夏のダンゴ底1:PBボトム1を耳たぶよりちょっと柔らかいところまで追い込んで≠ニ配合をガンガン変えていく、と。
 一連のへらぶな釣りの作業は農耕民族の1点居着き型≠ナポイントを作り上げていく″業で忙しく時が過ぎていくわけで、まさに田畑を耕し育てていく農耕民族の典型的な釣りと言えるでしょう。似たような釣り方ではコイのブッコミ釣りや西日本で多いクロダイ(チヌ)のダンゴ釣りで、どっかりと腰を下ろして手間ひま掛けてポイントを耕していきます…まさに農耕民族の釣りと言えるでしょう。それだけに隣近所が気になるようでどうしても道具に金を掛ける≠けで良い意味でも悪い意味でも農耕民族丸出しな釣りなのです。
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●だから日本人はオモシロイ
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 昨今ブームが去って金遣いの良い船釣りばかりに走っているTVの釣り番組ですが、上記の狩猟民族と農耕民族の釣りで考えたら確実に農耕民族な釣りという事になりますね。
 個人的な嗜好で言えば面白み≠竍深み≠ヘ理解できるのですが、どうしても農耕民族の釣りにのめり込んでやろうという気にはなれません。釣りキチ三平≠フ作者・矢口高雄氏の過去の言葉に『海の釣りにはドラマがない(だから釣りキチ三平は淡水域での話が多い)』というのがあります。考えてみると居着いて日がな過ごしているのと積極的にあちこち歩き回っているのとどちらがハプニングが多いか、といえばあちこち歩いたほうが確実に色々な変化に巡り会いますよね。だから私は歩いてもタカが知れているような事にのめり込むだけの魅力を感じないのです。道具も揃って釣り方も大体分かっていてもじっとしているような釣りには足が遠のく、と。
 個人的な嗜好はこんな感じですが、農耕民族の釣りを否定するつもりはありません。それを否定することはある意味自分自身を否定する℃魔ノなりかねないからです。
 
 なにしろ在来日本人には縄文人と弥生人の両方のDNAが混在しています。そのどちらも現在の自分を形成している欠かすことのできない大事な要素です。
 そこで『へらぶな釣りのどこが面白いんだよ』とか『マス釣りのどこがオモロイねん』という事自体ナンセンスです。もっともあなたの血の中の狩猟民族としての血を掻き立てるか農耕民族としての血を揺さぶるかは、あなたの性格によるところが大きいのです。それは実に個人的な話で「どこがオモシロイ?」ということ自体おかしいですよね?それは自分自身の一部を完全否定することになるのですから。
 いちばん最悪なのは狩猟民族丸出しなトラウト・フィッシングでそのまんま農耕民族なへらぶな釣りのアプローチをする事。実はルアーやフライで釣れない≠ニ嘆いている人間の多くは鋤や鍬を持って森の中を歩いているようなもので、それでは獲れる物も獲れません。
 実際に自分はどちらに向いているのか、ということを知る事の出来ない人間が、果たして自分自身のことをどこまで理解できているのか…自分を知らなければ自分を好きにも嫌いにもなれないし、ましてや自分を知らない人間が他人を知ることなどできるでしょうか?
 意外と深い問題です。
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